■雑談005_FIRE
「おう、今夜も来たか」
俺は黒い影が視界に入ったので、声をかけた。その黒い影はちょっと半透明。輪郭が揺らめいている。
「え?めずらしいなぁ。キミから声をかけられるなんて」
黒い影は目を丸くした……ような気がする。
今日に限っては、俺は突然現れる黒い影を待ち望んでいた。話し相手が欲しかったんだ。だが、そんなことを悟られるわけにはいかない。でも、やっぱり早く言いたい。この衝動を完全に抑えることができない。
思わず……「FIRE(ファイアー)って知ってる?」と漏らしてしまった。
黒い影が俺の後ろに回り込み、パソコンのモニターを覗いた。
「ああ……そっちね」と言い、定位置である俺の前までゆっくり歩き、その場であぐらを組んだ。
「たしか、投資とか投機の運用をうまくやって、もう働かなくても生活できますよって状態になることだよね」
「そうそう……FIRE(ファイアー)」
「これを達成することで、経済的な余裕ができるから、仕事から解放されるという……」
「そうそう……これがFIRE(ファイアー)」
「仕事をしなくてもいいから、その空いた時間を自分のために使えることができる……」
「うんうん……それがFIRE(ファイアー)だよ」
「それがどうしたの?達成したの?」
「いやいや、まだなんだけどね。最近、お笑い芸人で達成している人がいるみたいだし……」
俺は、先ほど読み終えた本の表紙を黒い影に見せた。
「もしかして、仕事しなくてよい生活を目指しています?」
なぜか敬語の黒い影の言葉に、俺は鼻で笑う。
「正直、仕事をしない生活っていうのはあこがれるね。だけど、俺もバカじゃない。家庭もあるし、いきなり投資に財産全投入みたいなことはしないさ。でもさ、今の会社を信用して……みたいな時代は終わったのかなとも思ったわけよ。大きい企業だって倒産する時代だぜ。経済も不安だし、行く末も不安じゃない?だったら、自分の身は自分で守る。家族は俺が守る。そんな男にならないといけないと思ったんだよ」
「確かに、それはそうだけど……」
「だから、これからは投資や投機を本気で考えようかと。このご時世、財産を分散して、運用して、行動を起こすことが普通なんだよ。当たり前なんだよ。今、行動すれば、仕事とは別で収入を得られる。やがて本業よりも稼ぐように、収入が推移していくと思うんだよ。ただ、お金を貯蓄するっていうだけではだめだ。今までの考え方ではだめなんだ。賢く稼ぐ。自分自身でお金を作る時代がもうそこまで来ていると俺は思っている」
黒い影は静かに聞いている。言い返せないのだろう。ここ1週間くらい、本やサイト、SNSを見て、さらに熟考したうえでの考えなのだ。この黒い影が軽く返事ができるような普段の会話とは重みが違う。
でも、あえて軽い感じで言葉を続けた。黒い影を論破したいという話ではないから。
「でも、やっぱり最終目標がFIRE(ファイアー)だな。ああ、もちろん知っているさ。言葉や理屈は簡単だけど、誰もがたどり着けるものではない。そこに達するまでに苦労やリスクも多大にある。だが、投資や投機をし、収入を得るというこの形が、これからのデフォルトになってくる。だから、この時代の流れに取り残されないためにも、FIRE(ファイアー)とは何か。FIRE(ファイアー)を達成するためには何が必要か。何の勉強をすべきなのかが大事なんだ。俺はそれに気づいたわけよ」
……年甲斐もなく熱く語ってしまった。
だが、これからの時代を生き抜くために必要な事だから。
だから、どうしても話したかった。
妻、子供にこんな話しても理解してくれない。
だから、どうしても知って欲かった。
俺は黒い影に視線を落とした。
いつの間にか、影は体を横にしていた。
「なぁ……」
黒い影が口を開いた。ような気がする。
「なんだ?」
素っ気ない返事をする。だが、内心、この黒い影からどんな意見や感想が来るかを期待している自分がいる。
逸る気持ちを押さえ、その言葉を待っていた。
黒い影が体を起こし、俺の方に視線を向けた。
「ファイアー、ファイアーってうるさいな。変な願望でもあるんじゃないの?」
公開日:2023/10/22
更新日:2024/08/14
