■雑談006_人間関係
風呂を出て、ソファーに深く座る。仕事、家の用事がすべて終わり、ささやかな『自分の時間』が俺にとっての唯一の至福の時間である。
至福の時間のはずなのだが、今夜は少し気分が沈んでいる。
理由はわかっている。だが、この直面している問題の打開策がわからない。最善を尽くしているつもりなのだが……
膝の上にパソコンの電源は入れたものの、視線は空をさまよっている。
「今日も小説書かずに動画を見ているパターン?あれ、ちがうなぁ」
黒い影が横からモニターを覗いてきた。が、なにもアプリケーションを開いていないその画面を見て、首を傾げている。
黒い影はちょっと半透明。輪郭が揺らめいている。
「なんか、あったの?」
黒い影は、俺が座っているソファーの前であぐらを組んだ。
俺は、考えていることを話そうかどうか迷った。この黒い影に話して理解してもらえるのかどうか。いや、こんな話をして、情けないと思われないか……という恐怖があった。
黒い影はまっすぐこっちを見ながら「声に出すと、頭の中が整理できて、解決につながることだってある。それに、オレもアドバイスくらいはできるかもしれないしさ」と言った。
確かにその通りだと思う。仕事が立て込んでいたり、考え事をしたりするときに、たとえひとり言だったとしても、ブツブツと声に出してみると意外に有効で、頭の中が冴え、仕事の優先順位を導き出したり、気づきが生まれたりすることもある。
時々、そのひとり言がエスカレートして、お局様に睨まれることもあるが……ただ、口に出すことの効果は知っている。
「実はさ……」と俺は、黒い影に話すことにした。
「実はさ、新入社員との人間関係がうまくいかないんだ」
「……はぁ?」
「だから、人間関係がうまく……」
「いや、わかるけど。え?」
俺は少しムッとした。
「じゃあ、聞くなよ」と声を荒げた。
黒い影が慌てる。
「いやいや、そういう意味じゃあなくて。ほら、こんな感じでオレと普通に話せているじゃん。今までの会話も問題なく成立しているし」
「まあ、そうだな」
「キミはコミュニケーションが取れる人なのに、なんで上手くいってないの?」
俺は少し考えた。だが、思い当たるものが見いだせない。
「やっぱり、分からない……」
「うーん。それでは、なんで人間関係に苦しんでいるのかが分からないよ。ちなみに、その新入社員が入ってからどれくらい?」
「1か月くらいかな」
「まだ、1か月だよね。まだ会社に慣れていないだけじゃない?それにキミは役職がついている。部下と上司という関係だから。どうしても、新入社員は身構えちゃうよね」
俺は別部署にいる同期を見かけたときの光景が、脳内で再生された。
「だけど、別部署にいる同期は上手くやっているように見えたんだよな。アイツも役職ついてるし。俺と状況は同じはず……いや、別部署なのに、すでに新入社員を上手く取り込んでさ……新人へのフォローもばっちりで、なんか自然な感じなんだよ」
「それは……確かに焦るね」
「だろ?」
「だけど、別に気にしなくていいんじゃない?」
黒い影の言葉を聞いて、俺はため息をつく。
「それって、よくある『他人と比べるな』ってやつ?」
「まあ、それもあるよ。コミュニケーション能力の高い人には、どう頑張っても敵わないし。オレだって、そういうヤツに会うとスゲーなぁとか、うらやましいと思う。嫉妬だってするよ。それに、同じようにマネをしたとしてもうまくいかないさ。どうせ敵わないんだったら、コツコツと積み上げるしかないんだよ」
「コツコツと積み上げる?」
「そう。顔を合わせる回数を増やす、ちょっとしたことでいいから会話をする回数を増やす。これを重ねるのさ。聞いたことない?『会えば会うほど好きになる』って言葉」
「さあ?」
「人間ってさ。いや、人間じゃあなくて、犬でも猫でも猿でもさ、所詮、個の集まりなんだよね。自分以外はその他大勢ってヤツ。その新入社員から見たら、キミはオッサンAだよ」
「だれが、オッサンAだ」
「今、世界の人口って80億くらいだっけ?人間だけで考えても80億人の個の集まり。その個に囲まれているってわけだよ」
俺は「話がでかくなったな……」とぼそりと言った。だが、その言葉は無視され、黒い影は言葉を続ける。
「もっとわかりやすいほうがいいよね。じゃあ、人間と犬で例えよう。犬を飼ったことあるよね?犬だって初対面のときは牙をむき、うなり声をあげる。もしくは、部屋の隅に身を寄せて、体を震わせている。だけど、何度も顔を合わせて、何度も名前を呼んであげて、何度もなでてあげて、やっとその犬がなつく……キミはその犬にとってオッサンAから、かけがえのないオッサンAに昇格するわけだよ」
「飼い犬からもオッサンと思われているのか?俺は……」
「相手が人間だって同じだ。ましてや、キミがいる会社の新入社員だ。同じ仕事をする仲間だ。同志だ。そんな同じ方向に向かって仕事をしている人だから、常に一緒だろ?いやでも会話ができる環境なんだよね?だったら、すぐには無理でも、コツコツと続ければ仲間になれる。さっきも言ったけど、『会えば会うほど好きになる』なんだよ」
「なるほどね……」
初めて黒い影の言葉に感心する。
「あとは、表情と会話の内容。特別なことはしなくてもいい。なにもいらない。笑いを取る必要もない。表情は基本明るく、言葉はポジティブに。会話の内容は相手の立場や気持ちを考えながら。特にキミは上司という立場なのだから、まずは聞いてあげるっていうことが大事だ」
黒い影は手を耳に当てながら何度も頷く。コミカルな感じで、相手の話を聞けよっていうジェスチャーをしている。
「あと、個人的にオススメなのは、自分のプライベートの話をするのも有効な話題の1つだと思うよ。自分を切り売りするみたいで嫌かもしれないけど、その話題が相手との共通の話題になりえるのであれば、それがきっかけで強く結びつくと思う。これはオレがよくやる手法だよ」
そう言いながら、黒い影は背筋を伸ばし、あぐらを組みなおした。
「それで、実際、キミは部下や新人とどんな話をしたんだよ?」
「え?FIREについて……」
「それだよ……人間関係がうまくいかない原因……」
黒い影は、深いため息をついた。
公開日:2024/02/23
更新日:2024/08/14
